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ふたたび江口章子、北原白秋の2番目の妻

ふたたび江口章子、北原白秋の2番目の妻

日本の近代が生みおとした稀有の大詩人北原白秋。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

の作者です。


大人の歌では、私は横浜出身なので、小学校の遠足というと城ヶ島に行ったものですが、城ヶ島の雨と言う美しい歌があります。


雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆上げた ぬしの舟

えゝ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ



白秋は生涯に3人の妻を持ちました。
その中でも、白秋と貧窮と失意の時代を共にして、
多くの名作を生ませるもとを築いた二番目の妻に江口章子がいます。
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おおまかにいうとこんな感じの方です。
1888年、大分県国東半島・香々地町の酒造業を営む家に生まれる。
大分高女で学び、卒業後上京、平塚雷鳥の紹介で北原白秋と知り合い結婚する。 2番目の妻。
下積み時代の白秋を支えるが、数年後離婚。 その後再婚するが、離婚。
放浪に近い生活を送る。
最後は、心も体も病んで、生家の土蔵で一人死んでいく。 1946年。


もうすこし詳しく言うと、、、、
明治21年(1888年)、大分県西国東郡香々地町(現、豊後高田市)に三女として誕生。江口家は大阪通いの貨物船まで持った米屋・酒造業でした。小学校の通学に使用人がお供するほどの分限者でした。長じて大分県立女学校に主席合格。母の実家の威徳寺(瓜生島にあったが、瓜生島沈没後大分市勢家に再建の名刹)に寄宿して通学。卒業前に弁護士の安藤茂九郎に見初められて結婚します。夫が検事となって柳川に転勤しますが、この頃から夫の女遊びや酒乱に悩まされ愛想を尽かして離婚、故郷の香々地に帰ります。上京して女性解放運動の平塚らいてふを頼り青鞜社にはいり、野上弥生子や伊藤野枝、岡本かの子らと交友を持ち文学に親しみました。文学を通じて白秋と親しくなり、大正5年(1916年)に白秋と結婚します。

かつて「邪宗門」を刊行し、人気絶頂にあった白秋が、人妻松下俊子との恋愛事件により、名声は一朝にして崩れ落ちていきました。しかも、苦しい恋愛の後に結婚した俊子は、貧しい生活をきらい、去ってしまいます。



この傷手をやわらげてくれたのが江口章子との市川での静かな田園年生活でした。

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二人の生活は貧しいけれど、幸せだった。

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ひとときの 
  君の友とて生まれきて
    女のいのち まこと捧げん

彼女が北原白秋に捧げたラブレター。
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白秋は「雀の卵」などの作品を生み出した。また、童謡などを手がけるようになったのもこのころから。白秋は世間に再度認められ文壇に復帰、その後も数々の名作を発表し、国民的詩人と呼ばれるようになった。この期間における章子の献身的な努力は世人に認められ、才媛として広く文人たちに知られることとなった。
 
生田春月という詩人が彼女の事をこう書いてます。


○ 江口章子さんをおもうと、私は不思議に、平安朝の才媛を想起する。
○ 初めて会った時の、ろうたけき若姿を、忘れることはできない。  
                          。
○ 章子さんは、趣味と情熱の詩人であった。
○ 昔の京の美となまめきを、そっくり持っている人。 (章子は、自分の祖先は京都だと思っている)
○ 平安朝の宮廷の貴夫人であったなら、その才とかたちとは、いかに多くの公達の心を奪ったであろう。
○ 和泉式部などが、もっとも近いように思われる。
○ 章子は、散文より詩の人である。

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北原白秋は病気がちの妻のために念願の洋館「木菟の家」を小田原に建設したが、「赤い瓦の洋館」の地鎮祭は園遊会をかねて、実に派手な催しとして演出された。これに参加するために東京からやって来た弟の北原鐵雄と義理の弟でもある山本鼎は、その派手な演出を見て驚いた。それを采配しているのが章子だと知ると、二人は、章子を呼んで、それを注意したというのだ。質屋に服を全部おさめてまで尽力した章子はいたたまれなくなり、東京へ帰る人々のために、国府駅まで仕立てられた自動車の一台に乗り込んで、家には戻らなかった。

 北原白秋との離別を決意した章子は、自宅に出入していた白秋付新聞記者池田林儀と一夜を明かす関係になった。その後池田林儀はベルリンに特派員として行ってしまう。

1920(大正9)年6月、章白秋と離別、谷崎潤一郎らの懸命の奔走にも関わらず、ついに白秋のもとへは帰らなかった。白秋はその後、佐藤菊子と結婚。

北原白秋の家を出た章子は、平塚雷鳥宅に行こうとしたが断られ、谷崎潤一郎のところに転がりこむ。破滅的な生き方をする章子ではあったが、全面的に依存された谷崎は、彼女を追い返すことはできなかった。谷崎潤一郎は章子に肩入れし 章子とよりを戻そうとする北原白秋との関係を絶ったほどである。


彼女は香々地へ帰ります。故郷へ帰ったものの、既に実家は没落し、江口家は養子の代になっていました。別府の「銅御殿(あかがねごてん)」に柳原白蓮を訪ねてしばらく身を寄せたあと放浪、西国巡礼の帰途大分市松岡の淨雲寺や木の上の少林を訪れています。大正10年(1921年)京都の大徳寺に入ります。2年後に一休寺の住職林山大空と三度目の結婚をしますが、2ヶ月後には出奔。
 そのころの歌

人間を枯れ木とおもふ吾ゆゑにこの山住みをさみしとはいはじ

 その後、大徳寺の僧・中村戒仙と恋に落ち同居、昭和5年(1930年)10月戒仙と結婚するも、禅僧は妻帯できないので章子は寺から一歩も外出できない生活が続きます。このころから精神を病み京都帝大病院精神科に入院、早発性痴呆症の診断を受けます。一ヶ月で退院し、詩集『追分の心』出版。1933年(昭和8年)大法要の時、章子は真っ裸で表に飛び出し木の下で座禅を組んだといいます。その後、脳溢血で半身不随となり、昭和13年(1938年)に離婚後卜部鉄心と同居、以降脳出血をくり返します。
 京都から再び故郷香々地に帰ったときは、身も心もずたずたになっていました。章子終焉の部屋は土蔵でしたが、ここは座敷牢のような部屋でいわゆる「食い中気」になり、糞尿にまみれて章子は一人で息絶えました。死因は脳軟化症。昭和21年(1946年)10月29日、雪の降りしきる朝だったということです。


終戦1年後、享年59歳でした。枕元には手あかで黒光りした白秋の『雀百首』が残されていたといいます。香々地には章子の歌碑が建てられています。


ふるさとの
  香々地にかへり 泣かむものか
    生まれし砂に 顔はあてつつ
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ん~~~、江口章子さん凄絶です。しかし表現者は晒してなんぼの仕事です。

ピュアとも言えるが凄絶な生き方すら、その人間のオリジナル、尊敬に値します。

しかし、今だって家を新築するのは大変な事だけど
どうして地鎮祭で親戚に注意されたくらいで
それが離婚の原因になるかなあ、、、、、

それにしても。


生きてさえゐればよいのじゃ赤蜻蛉


うわ~~~~~、スゴい。



いまから125年も前に生まれて、終戦の翌年に亡くなられた方ですが、ご冥福をお祈りいたします。

オリジナルってなんなんでしょうか?
私はそれぞれが自分固有のいろどりを、その本質にもとずいてのびのびと表現されることだと思います。
たとえ悲惨と周りから判断されようとも。










浜田澄子展
SANSUIー大地への祈りー


3.11以降、荒ぶれている天地宇宙が鎮まることを祈念し、
今回の創作を敬意と感謝を込めて大地に捧げます。


2012.7.23(mon)~7.28(Sat)
11:00~19:00最終日16:00
初日18時よりレセプションを予定しています。


中和画廊
東京都中央区銀座6-4-8 曽根ビル3F
tel&fax 03-3575-7620


http://www.chu-wa.com/</span> ">http://www.chu-wa.com/

いよいよ追い込みです。
今回は大震災以降荒ぶれる天地に作品を奉納するつもりで作ります。

よろしくお願いします!!

ご連絡、問い合わせはこちらまで。








どこからでもホームページにいけます。ご高覧くださいませ。


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3 Comments

There are no comments yet.

ArtAnneRose

コメントありがとうございます

加藤様、読んでくださってありがとうございます。
ご指摘の通りだと思います。
この詩を書いた時は
少しとおくから控えめにかいたんじゃないかな。
モヒカン面白かったでしょう!笑

ものを作りながら、生活全部アートにしたくて
ハンドルネーミングセンスしました。
これからもよろしくお願いします。

加藤

お礼

続けてのコメントをお許しください。ブログを拝見し、芸術の世界にふれる事ができ、気品のある世界に入らせていただいております。さっきのコメントにそのお礼を申し上げるのを忘れてしまいました。ありがとうございます。「モヒカン故郷に帰る」の映画見ました。出演者の方々、皆さんいい味を出してました。とても良かったです。

  • 2017-03-05 Sun 09:10
  • REPLY

加藤

すてきな解説を拝読いたしました。ありがとうございます。

江口章子さんのことを調べたのですが、「ひとときの君が友とて」の歌は、最後が「まこと捧げん」でなく「まこと捧げつ」が正しいのでは、そうでないとまずいのではと思えます。というのはこの歌は白秋が亡くなった事を新聞で知って詠んだ歌として紹介されているのを見ましたし「昭和万葉集」に白秋への挽歌として載っていました。ネットで「捧げん」としてあるのを見かけるので、どなたかが誤って書いたのが広がったのではと思います。「捧げん」という恋の歌だとすると、女性が男性への熱烈な恋の歌に「ひとときの」という時間限定の言葉を入れるということは(私は男なのでよくはわかりませんが)しないのではと思うのです。

  • 2017-03-05 Sun 06:18
  • REPLY