
八木重吉の妻登美子
先日の暖かい日に、八木重吉を思い出しました。
もう2月に入りましたが、2月3日の節分とは年度替わり、正月でもあります。
そんな節目に八木重吉の詩を思い出したというのも、何か意味があるのかも入れません。

八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は日本の詩人。
東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市)に生まれる。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。
神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。
同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人となる。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌年、29歳で亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える。
ウィオペキアより。
八木重吉は短い、光の粒でできたような美しい詩をたくさん遺しました。
桜
綺麗な桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる
冬
妻は陽二を抱いて
私は桃子の手をひっぱって外に出た
だれも見ていない森はずれの日だまりへきて
みんなして踊ってあそんだ

八木重吉が結核でこの世を去った時、
残された妻登美子は22歳の若さでした。
重吉が亡くなった直後は、さすがに魂の抜けたようになり、
放心状態で動くことさえできませんでしたが、
遺された二児をしっかりと育てなくてはならないと自覚し、再び立ち上がりました。
重吉の葬式後、実母と相談して池袋の小さな貸家に家族で移り住むことになります。
最初は親戚の家に間借りしていたのですが、
いつまでも甘えるわけにはいかないという決意の上のことでした。
まだ子供が小さいので、勤めに出ることはせず、
家の土間を利用して、母と小さなおもちゃ屋を開きながら、
洋裁学校に通って、手に職をつけ、
自ら問屋の下請をしている家を探して、縫い仕事などを貰ってきました。
しかし、それも大した収入にならなかったことから、
仕方なく新しくできた百貨店の主任に頼み込んで店員にしてもらいます。
おそらく当時は既婚女性を雇ってくれるところは、
ほとんど無かったのでしょう。
勤めは朝9時から夜9時までの長時間勤務でした。
全く将来が見えない、その日その日がかろうじて無事終わったことを、
ホッとするような毎日であったと思います。
そんな彼女を励ましたのは、亡き重吉の詩であったと本人は言います。
春
朝眼を醒まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
ぼろぼろと涙が出てとまらなかった
夫重吉はこんなにも私や子供達のことを考えながら逝ったのだ、
と思うと胸がいっぱいになったと回想しています。
そこには、どうして先に死んでしまったのかとか、もう疲れ果ててしまったというような
登美子の言葉は、全く見受けられません。
「桃子と陽二は成人するまで
必ず一所に育ててもらい度い」
「二人を人間として
よき人間に育ててくれ
頼む」
重吉が死の直前にノートに書き綴った、詩ともつぶやきとも遺言とも似つかぬ言葉を胸に、
無我夢中で必死に生きていた…というのが実情ではないかと思います。
登美子が百貨店から急いで家に帰っても、夜9時過ぎになるので、
幼い陽二はもう寝てしまっていました。
しかし、2つ年上の桃子は母の足音を待って、毎晩じっと起きていました。
おそらく桃子が7歳か、8歳の頃であると思います。
長じて桃子が13歳となった時、書いた作文が残っています。
お母様 1年3組 八木桃子
夜の九時半といえば、此の辺はひっそりとしずまりかえって、
時々人々の足音が聞こえるだけ。
もうお母様のお帰りになる頃だ、私は耳をすまして、
お母様の足音を聞こうとして、待ちつづけている。
お父様のお亡くなりになった時、お母様は未だ二十三歳(数え年)のお若い頃、
今年で丁度十年目だといいます。
(中略)朝の九時から夜の九時迄、十二時間のお務は、
普通ゆりお弱いお母様のお体には随分無理なので、
時々御病気になって、五日、一週間と床についておしまいになります。
とてもお疲れになって淋しいお顔を見る時、
私は早く大きくなって、いつもお母様のおっしゃる、優しくて強い人になり、
御安心して頂きたいとお祈り致します。
(後略)
桃子は学校で「桃子さんの絵には詩がありますね」と誉められ、
長じてくるに従い重吉に面影も似てくるなど、
母登美子を助ける頼もしい存在になりつつありました。
その頃になると陽二も成長し、親子3人背が同じ高さになり、
三人兄弟のようだといわれたこともあったそうです。
登美子は2人が幼子の頃から必死に頑張ってきましたから、
2人の成長を何よりも嬉しく頼もしく思ったことでしょう。
ずっと厚い雲間に閉ざされてきた八木家に、
10年経って、やっと一筋の光が差し込んだ思いであったでしょう。
しかし、闇はまた突然やってきました。
桃子が中学2年生になると、咳が止まらず、
診察を受けると重吉の命を奪ったのと同じ結核との診断。
即入院の宣告でしたが、お金もなく、頼んだ先にはみな断られ、
泣く泣く自宅療養するほかはありませんでした。
日に日に色が白く、咳が多くなり、その年の年末、眠るように息を引き取りました。
登美子は死に逝く愛娘桃子を見守ることしかできませんでした。
享年14歳。
桃子
つかれて帰えってきたらば
家の方からひらひら桃子がとんできた
赤いきものを着て
両手をうんとひろげながらそっくりかえって
ぷつぷつぷつぷつ独りっこをいいながらやってきた
わたしのむねへ
もも子がころころ赤くうつるようなきがした
明けた正月は、すでに桃子は花に囲まれた遺影となり、
残された者だけの淋しいうつろな正月となりました。
しかし登美子の苦難の人生はこれだけにとどまりませんでした。
登美子のもとには長男陽二だけが残されました。
登美子の生きる力は全て陽二に注がれました。
日曜も出勤しなければならない10年勤めていた百貨店を思い切って退職し、転職。
休みの日は陽二と一緒にいるようにしました。
二人で一緒に映画に行ったり、食事をしたり、クラシックのレコードを聴いたりして過ごしました。
陽二もまた姉の桃子に似て、心優しい少年でした。
陽二が姉桃子が死んだ時に作った詩を紹介します。
「陽二の詩」
ねえさん僕はうれしいよ
病気の中でもしたがきを書いてくれた心持。
ふだんもやさしいねえさんが
どうしてくるしみ死ねましょう。
ねえさんみんなにかわいがられ
死んだ後にもほめられて
ねえさんほんもうわれうれし。
くる人くる人ねえさんの
てがらばなしでうずもれる
かげにききいるわたくしは
うれしさあまり泣きました。
ねえさん死んだ其の顔は
信仰もって居たせいか
ほほえみ顔でありました。
ねえさんごめんねゆるしてよ
かそうばの中へいれちゃって
さぞかしあつうでございましょう。
ねえさんいつもにこやかに
きもちのよい時わらってた
かあさんよろこびゃ、ねえさんも
いっしょにえがおをしていたね。
ねえさんえらいよ世界一
やさしいきれいなねえさんよ。
しかし桃子が亡くなってやっと落ち着いてきた2年後、
今度は陽二が体調を崩します。
診断の結果はまたもや結核。
そして思わぬ早さで不幸が現実のものになります。
陽二はある日、いきなり大喀血し、あっという間に息を引き取りました。
享年15歳。
病状の進行具合からみて、
彼は母が気づく前に病の兆候を察しながら、
心配かけまいと隠していたんではないかなと、ふと思ったりします。
この年頃の男の子にはそういうところがありますから。
これは全く自分の想像ですけれども…
ちなみに先ほどご紹介した姉を慕う詩は、
彼の死後、彼の持ち物を整理していた時に、
母登美子が見つけたものだそうです。
「神はその人に耐えられない試練を絶対に与えない」
よくキリスト教会の説教で言われることです。
しかし登美子の半生を見ていると、とても軽々しくそんなことはいえないものがあります。
詩人として花開こうとしている夫を失い、
10年懸命に頑張ってきて、やっと大人びてきた娘を失い、
心を尽くして接してきた最後に残された息子も命を奪われる。
登美子は家族全員と死に別れ、独りぼっちになってしまいました。
もし同じことが自分の身に降りかかったら、
どうなってしまうのか想像もできない出来事の数々。
ひたむきに生きてきた登美子も、
とうとう全身の力が抜けて倒れ込んでしまいました。
長い間張り詰めていた心の弦がぷつりと切れてしまったように、うつろな日が続きました。
無理もありません。
登美子の孤独感をよく表していると思われる、一文があります。
「帰りの汽車に乗ってから、私は不意に柏の家を見たいというおもいに駆られた。
そうして途中下車をすると、あれからもう十数年も会っていない柏の里へ急いだ。
おそらく住む人もみなかわっているであろう一群の家を見ながら、ぼんやりと佇んでいた。」
登美子は、陽二を亡くし、生きてゆく気力も失せ、虚ろな日々を送っていました。
そんなある日、登美子は、重吉が書き遺した詩稿を詰めたバスケットをふと開いてみます。
妻よ
わらいこけている日でも
わたしの泪をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ
重吉の心が直に登美子を貫き、ポロポロ涙が頬を伝って落ちるのを止めることができなかった。
と彼女は回想しています。
重吉の魂に直に触れることのできる、今も生きている詩の数々。
桃子と陽二が成人したら、3人で重吉の遺した詩を詩集にしようと話し合っていたといいます。
桃子も陽二も亡き今、この世でそれができるのは自分しかいない…
登美子は重吉の詩稿を守り抜いて詩集にし、世の多くの人々に読んでもらうことが、
自分にしかできない、ただ一つ残された仕事だと悟りました。
彼女の心の琴の弦は切れることはありませんでした。
ほどなく、ある人の紹介で、今までの懐かしい思い出のある住まいを引き払い、
重吉がかつて入院していた茅ヶ崎の病院に住み込みで働くことになりました。
その合間にも登美子は、重吉の詩稿集めや詩集の依頼などで、
かつて重吉と親交のあった詩人や知己、出版関係の人々の間を奔走します。
それこそ雨の日も雪の日も。
そのうち「八木重吉の奥さんが原稿を持って歩いて苦労しているので、詩集を出せないだろうか」
などの声も出始めました。
そのような登美子の尽力が実って、最初の詩集が出版されたのは、陽二が亡くなって2年後のことでした。
戦時中の統制下のため僅か五百部でしたが、
それが戦後、重吉の作品を世に出す架け橋となったと回想しています。
戦時中は空襲のたびに防空壕へ持って入るものは、
重吉の詩稿を詰めた古バスケット一つのみ。
戦争が終わっても、登美子の闘いはまだ続きました。
しかし何人かの重吉の詩集の読者という人間が現れ始め、
彼らとの交流でどんなにか慰められ、
自分が、いかに重吉の遺した言葉に守られているかを感じたといいます。
戦後しばらくして、登美子は、鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚しました。
43歳の時でした。
おそらく登美子が重吉の詩稿集めや詩集の依頼などで奔走していた時に、知り合ったのでしょうか。
吉野秀雄は八木重吉の作品を世に知らしめる活動に熱心な人で、
2人はその行動を共にしました。
その吉野秀雄も登美子63歳の時に亡くなります。
登美子78歳の時、遂に筑摩書房から「八木重吉全集」が出版されました。
そこで登美子は「感謝」と題する一文を寄稿しています。
「昭和2年10月26日早暁、八木重吉は数え年三十歳で、余りにも早く昇天してしまいました。
この朝は実に美しい朝焼けであったと憶えています。
あれからもう55年経ちました。
私は平凡な女で、八木の全集を編むこともかなわず、年老いてしまいましたが、
いろいろな方々のご尽力により、いよいよ出ることになりました。
こんなありがたいことはありません。
毎年大学の卒業論文に「八木重吉」を書く学生が私を訪ねて来られますが、
この全集が出版されたことにより、老いた私がいつこの世を去っても、
八木のすべてをわかっていただけるので、本当に安心しました。
この「八木重吉全集」がいついつまでも多くの人に読み継がれますようにと、
私はひたすら祈り続けております。」(文中中略あり)
この世で為さねばならぬと思っていたことをやり終え、
余生を穏やかに過ごし、十数年後登美子は安らかに息をひきとりました。
平成11年2月永眠
享年94歳
以上、http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/9063654.html
もたんもぞさんという方のブログより転載です。
美しい心の詩人とその妻、、、
そして時間の短さでなく、その生を燃焼されたお二人、、、、
その凛としたぶれない生き方は、不安要素の多い現代でも、灯火のようにきらきら私を導いてくれると思いました。
ギャラリーコレクション展のお知らせ

場所 k、s gallery

2013年2月4日(月)~2月9日(土)会期中無休
月~木12:00~19:00、金12:00~20:00、土11:30~17:30
深尾良子
荻野美穂子
田鶴濱洋一郎
オーガフミヒロ
石黒隆宗
菅野美榮
TADASUKE
風見規文
宝珠光寿
濱田澄子
上野謙介
ほか
最近のコレクションを中心に展示するつもりですが、
小品が多く、壁が埋まりそうもないので、
おなじみの作家も登場します。
野見山暁治、原大介、上田泰江、カジ・ギャスディンなど。。。
並べてみないと、どうなるかわかりません。
お楽しみにしてください。
以上k,sギャラリーのブログからの転載です。
http://ameblo.jp/ginzaksg/entry-11460714100.html</span> ">http://ameblo.jp/ginzaksg/entry-11460714100.html
私の作品はどれでしょうか??笑
私は月曜日、五時半頃から画廊におります。
お待ちしております。
2012年個展SANSUI-大地への祈りー
http://hamadasumiko.justhpbs.jp/2012cyuwa.html</span>">http://hamadasumiko.justhpbs.jp/2012cyuwa.html
http://sokei-ob.com/archives/2012/120724_hamada.html</span> ">http://sokei-ob.com/archives/2012/120724_hamada.html
ご連絡、問い合わせはこちらまで。


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もう2月に入りましたが、2月3日の節分とは年度替わり、正月でもあります。
そんな節目に八木重吉の詩を思い出したというのも、何か意味があるのかも入れません。

八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は日本の詩人。
東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市)に生まれる。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。
神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。
同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人となる。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌年、29歳で亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える。
ウィオペキアより。
八木重吉は短い、光の粒でできたような美しい詩をたくさん遺しました。
桜
綺麗な桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる
冬
妻は陽二を抱いて
私は桃子の手をひっぱって外に出た
だれも見ていない森はずれの日だまりへきて
みんなして踊ってあそんだ

八木重吉が結核でこの世を去った時、
残された妻登美子は22歳の若さでした。
重吉が亡くなった直後は、さすがに魂の抜けたようになり、
放心状態で動くことさえできませんでしたが、
遺された二児をしっかりと育てなくてはならないと自覚し、再び立ち上がりました。
重吉の葬式後、実母と相談して池袋の小さな貸家に家族で移り住むことになります。
最初は親戚の家に間借りしていたのですが、
いつまでも甘えるわけにはいかないという決意の上のことでした。
まだ子供が小さいので、勤めに出ることはせず、
家の土間を利用して、母と小さなおもちゃ屋を開きながら、
洋裁学校に通って、手に職をつけ、
自ら問屋の下請をしている家を探して、縫い仕事などを貰ってきました。
しかし、それも大した収入にならなかったことから、
仕方なく新しくできた百貨店の主任に頼み込んで店員にしてもらいます。
おそらく当時は既婚女性を雇ってくれるところは、
ほとんど無かったのでしょう。
勤めは朝9時から夜9時までの長時間勤務でした。
全く将来が見えない、その日その日がかろうじて無事終わったことを、
ホッとするような毎日であったと思います。
そんな彼女を励ましたのは、亡き重吉の詩であったと本人は言います。
春
朝眼を醒まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
ぼろぼろと涙が出てとまらなかった
夫重吉はこんなにも私や子供達のことを考えながら逝ったのだ、
と思うと胸がいっぱいになったと回想しています。
そこには、どうして先に死んでしまったのかとか、もう疲れ果ててしまったというような
登美子の言葉は、全く見受けられません。
「桃子と陽二は成人するまで
必ず一所に育ててもらい度い」
「二人を人間として
よき人間に育ててくれ
頼む」
重吉が死の直前にノートに書き綴った、詩ともつぶやきとも遺言とも似つかぬ言葉を胸に、
無我夢中で必死に生きていた…というのが実情ではないかと思います。
登美子が百貨店から急いで家に帰っても、夜9時過ぎになるので、
幼い陽二はもう寝てしまっていました。
しかし、2つ年上の桃子は母の足音を待って、毎晩じっと起きていました。
おそらく桃子が7歳か、8歳の頃であると思います。
長じて桃子が13歳となった時、書いた作文が残っています。
お母様 1年3組 八木桃子
夜の九時半といえば、此の辺はひっそりとしずまりかえって、
時々人々の足音が聞こえるだけ。
もうお母様のお帰りになる頃だ、私は耳をすまして、
お母様の足音を聞こうとして、待ちつづけている。
お父様のお亡くなりになった時、お母様は未だ二十三歳(数え年)のお若い頃、
今年で丁度十年目だといいます。
(中略)朝の九時から夜の九時迄、十二時間のお務は、
普通ゆりお弱いお母様のお体には随分無理なので、
時々御病気になって、五日、一週間と床についておしまいになります。
とてもお疲れになって淋しいお顔を見る時、
私は早く大きくなって、いつもお母様のおっしゃる、優しくて強い人になり、
御安心して頂きたいとお祈り致します。
(後略)
桃子は学校で「桃子さんの絵には詩がありますね」と誉められ、
長じてくるに従い重吉に面影も似てくるなど、
母登美子を助ける頼もしい存在になりつつありました。
その頃になると陽二も成長し、親子3人背が同じ高さになり、
三人兄弟のようだといわれたこともあったそうです。
登美子は2人が幼子の頃から必死に頑張ってきましたから、
2人の成長を何よりも嬉しく頼もしく思ったことでしょう。
ずっと厚い雲間に閉ざされてきた八木家に、
10年経って、やっと一筋の光が差し込んだ思いであったでしょう。
しかし、闇はまた突然やってきました。
桃子が中学2年生になると、咳が止まらず、
診察を受けると重吉の命を奪ったのと同じ結核との診断。
即入院の宣告でしたが、お金もなく、頼んだ先にはみな断られ、
泣く泣く自宅療養するほかはありませんでした。
日に日に色が白く、咳が多くなり、その年の年末、眠るように息を引き取りました。
登美子は死に逝く愛娘桃子を見守ることしかできませんでした。
享年14歳。
桃子
つかれて帰えってきたらば
家の方からひらひら桃子がとんできた
赤いきものを着て
両手をうんとひろげながらそっくりかえって
ぷつぷつぷつぷつ独りっこをいいながらやってきた
わたしのむねへ
もも子がころころ赤くうつるようなきがした
明けた正月は、すでに桃子は花に囲まれた遺影となり、
残された者だけの淋しいうつろな正月となりました。
しかし登美子の苦難の人生はこれだけにとどまりませんでした。
登美子のもとには長男陽二だけが残されました。
登美子の生きる力は全て陽二に注がれました。
日曜も出勤しなければならない10年勤めていた百貨店を思い切って退職し、転職。
休みの日は陽二と一緒にいるようにしました。
二人で一緒に映画に行ったり、食事をしたり、クラシックのレコードを聴いたりして過ごしました。
陽二もまた姉の桃子に似て、心優しい少年でした。
陽二が姉桃子が死んだ時に作った詩を紹介します。
「陽二の詩」
ねえさん僕はうれしいよ
病気の中でもしたがきを書いてくれた心持。
ふだんもやさしいねえさんが
どうしてくるしみ死ねましょう。
ねえさんみんなにかわいがられ
死んだ後にもほめられて
ねえさんほんもうわれうれし。
くる人くる人ねえさんの
てがらばなしでうずもれる
かげにききいるわたくしは
うれしさあまり泣きました。
ねえさん死んだ其の顔は
信仰もって居たせいか
ほほえみ顔でありました。
ねえさんごめんねゆるしてよ
かそうばの中へいれちゃって
さぞかしあつうでございましょう。
ねえさんいつもにこやかに
きもちのよい時わらってた
かあさんよろこびゃ、ねえさんも
いっしょにえがおをしていたね。
ねえさんえらいよ世界一
やさしいきれいなねえさんよ。
しかし桃子が亡くなってやっと落ち着いてきた2年後、
今度は陽二が体調を崩します。
診断の結果はまたもや結核。
そして思わぬ早さで不幸が現実のものになります。
陽二はある日、いきなり大喀血し、あっという間に息を引き取りました。
享年15歳。
病状の進行具合からみて、
彼は母が気づく前に病の兆候を察しながら、
心配かけまいと隠していたんではないかなと、ふと思ったりします。
この年頃の男の子にはそういうところがありますから。
これは全く自分の想像ですけれども…
ちなみに先ほどご紹介した姉を慕う詩は、
彼の死後、彼の持ち物を整理していた時に、
母登美子が見つけたものだそうです。
「神はその人に耐えられない試練を絶対に与えない」
よくキリスト教会の説教で言われることです。
しかし登美子の半生を見ていると、とても軽々しくそんなことはいえないものがあります。
詩人として花開こうとしている夫を失い、
10年懸命に頑張ってきて、やっと大人びてきた娘を失い、
心を尽くして接してきた最後に残された息子も命を奪われる。
登美子は家族全員と死に別れ、独りぼっちになってしまいました。
もし同じことが自分の身に降りかかったら、
どうなってしまうのか想像もできない出来事の数々。
ひたむきに生きてきた登美子も、
とうとう全身の力が抜けて倒れ込んでしまいました。
長い間張り詰めていた心の弦がぷつりと切れてしまったように、うつろな日が続きました。
無理もありません。
登美子の孤独感をよく表していると思われる、一文があります。
「帰りの汽車に乗ってから、私は不意に柏の家を見たいというおもいに駆られた。
そうして途中下車をすると、あれからもう十数年も会っていない柏の里へ急いだ。
おそらく住む人もみなかわっているであろう一群の家を見ながら、ぼんやりと佇んでいた。」
登美子は、陽二を亡くし、生きてゆく気力も失せ、虚ろな日々を送っていました。
そんなある日、登美子は、重吉が書き遺した詩稿を詰めたバスケットをふと開いてみます。
妻よ
わらいこけている日でも
わたしの泪をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ
重吉の心が直に登美子を貫き、ポロポロ涙が頬を伝って落ちるのを止めることができなかった。
と彼女は回想しています。
重吉の魂に直に触れることのできる、今も生きている詩の数々。
桃子と陽二が成人したら、3人で重吉の遺した詩を詩集にしようと話し合っていたといいます。
桃子も陽二も亡き今、この世でそれができるのは自分しかいない…
登美子は重吉の詩稿を守り抜いて詩集にし、世の多くの人々に読んでもらうことが、
自分にしかできない、ただ一つ残された仕事だと悟りました。
彼女の心の琴の弦は切れることはありませんでした。
ほどなく、ある人の紹介で、今までの懐かしい思い出のある住まいを引き払い、
重吉がかつて入院していた茅ヶ崎の病院に住み込みで働くことになりました。
その合間にも登美子は、重吉の詩稿集めや詩集の依頼などで、
かつて重吉と親交のあった詩人や知己、出版関係の人々の間を奔走します。
それこそ雨の日も雪の日も。
そのうち「八木重吉の奥さんが原稿を持って歩いて苦労しているので、詩集を出せないだろうか」
などの声も出始めました。
そのような登美子の尽力が実って、最初の詩集が出版されたのは、陽二が亡くなって2年後のことでした。
戦時中の統制下のため僅か五百部でしたが、
それが戦後、重吉の作品を世に出す架け橋となったと回想しています。
戦時中は空襲のたびに防空壕へ持って入るものは、
重吉の詩稿を詰めた古バスケット一つのみ。
戦争が終わっても、登美子の闘いはまだ続きました。
しかし何人かの重吉の詩集の読者という人間が現れ始め、
彼らとの交流でどんなにか慰められ、
自分が、いかに重吉の遺した言葉に守られているかを感じたといいます。
戦後しばらくして、登美子は、鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚しました。
43歳の時でした。
おそらく登美子が重吉の詩稿集めや詩集の依頼などで奔走していた時に、知り合ったのでしょうか。
吉野秀雄は八木重吉の作品を世に知らしめる活動に熱心な人で、
2人はその行動を共にしました。
その吉野秀雄も登美子63歳の時に亡くなります。
登美子78歳の時、遂に筑摩書房から「八木重吉全集」が出版されました。
そこで登美子は「感謝」と題する一文を寄稿しています。
「昭和2年10月26日早暁、八木重吉は数え年三十歳で、余りにも早く昇天してしまいました。
この朝は実に美しい朝焼けであったと憶えています。
あれからもう55年経ちました。
私は平凡な女で、八木の全集を編むこともかなわず、年老いてしまいましたが、
いろいろな方々のご尽力により、いよいよ出ることになりました。
こんなありがたいことはありません。
毎年大学の卒業論文に「八木重吉」を書く学生が私を訪ねて来られますが、
この全集が出版されたことにより、老いた私がいつこの世を去っても、
八木のすべてをわかっていただけるので、本当に安心しました。
この「八木重吉全集」がいついつまでも多くの人に読み継がれますようにと、
私はひたすら祈り続けております。」(文中中略あり)
この世で為さねばならぬと思っていたことをやり終え、
余生を穏やかに過ごし、十数年後登美子は安らかに息をひきとりました。
平成11年2月永眠
享年94歳
以上、http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/9063654.html
もたんもぞさんという方のブログより転載です。
美しい心の詩人とその妻、、、
そして時間の短さでなく、その生を燃焼されたお二人、、、、
その凛としたぶれない生き方は、不安要素の多い現代でも、灯火のようにきらきら私を導いてくれると思いました。
ギャラリーコレクション展のお知らせ

場所 k、s gallery

2013年2月4日(月)~2月9日(土)会期中無休
月~木12:00~19:00、金12:00~20:00、土11:30~17:30
深尾良子
荻野美穂子
田鶴濱洋一郎
オーガフミヒロ
石黒隆宗
菅野美榮
TADASUKE
風見規文
宝珠光寿
濱田澄子
上野謙介
ほか
最近のコレクションを中心に展示するつもりですが、
小品が多く、壁が埋まりそうもないので、
おなじみの作家も登場します。
野見山暁治、原大介、上田泰江、カジ・ギャスディンなど。。。
並べてみないと、どうなるかわかりません。
お楽しみにしてください。
以上k,sギャラリーのブログからの転載です。
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私の作品はどれでしょうか??笑
私は月曜日、五時半頃から画廊におります。
お待ちしております。
2012年個展SANSUI-大地への祈りー
http://hamadasumiko.justhpbs.jp/2012cyuwa.html</span>">http://hamadasumiko.justhpbs.jp/2012cyuwa.html
http://sokei-ob.com/archives/2012/120724_hamada.html</span> ">http://sokei-ob.com/archives/2012/120724_hamada.html
ご連絡、問い合わせはこちらまで。


どこからでもホームページにいけます。ご高覧くださいませ。




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